禅語に触れる

心配症はいいことだ [一切唯心造]


何を隠そう、私はかなりの心配症です。出かけるときや出張の時は荷物を何度も見直しますし、新しいところに行くと不安を感じるほうです。

新しい人に会うとき、プレゼンや資料を報告するときには本来自分視点でいればいいのですが、「どう見られるか?」という視点にどうしても立ってしまう癖が治っておらず緊張しまくりです。

そういえば子供の頃に寝る前にトイレに必ずいかないと不安になったり、一日でも大きいほうが出ないと体調がおかしいのではないか?と不安になります。あれは親からいろいろ厳しく言われていたからなのかもしれません。

子育てでもあまり不安を煽るようなやり方はよくないですね。「こうなったらどうしよう」と不安になる私のようになってしまう気がします。

この 一切唯心造 (いっさいゆいしんぞう) という言葉はどういう意味かというと、全ての現象は心が作り出しているという意味です。この世の中のことはただ人が心でつくりだしているものだという禅の言葉です。

考えてみると、心配症で不安症の私がとらわれてることの多くは実態がありません。

「こうなったらどうしよう?!」といくら不安になってもそれが起きないことが多いですし、「人からこう思われてたらどうしよう」と思うことは多いです。頭では考えてなくても、何というか細胞レベルで無意識に意識してストレスを感じていることもあるような気がします。

このように私が感じる不安や心配には実態がなく、未来のことばかりです。 過去のことは後悔こそしてしまいますが、少なくとも不安になったり心配になることはない気がします。

—— 〻 ——

そうなると実態がないことを不安に思うよりも、いまできることに集中したほうがよいということになりますが、なかなかこれが難しい。

いまできることに集中しよう
そう思ったとしても次の瞬間には夜ご飯どうしようとか、来週の会議が嫌だなぁとか、今度ある飲み会気が乗らないなぁとか、どうしても先のことを考えてしまいます。

今、今、今。不安や心配を感じて心が押しつぶされそうになったときや不安で落ち着きがないときに行動を起こせるのは過去でも未来でもなく「今」であることを思い出すようにしています。

今もっているものや、環境、生活に感謝して今できることやる。やれることやって不安に思っている方や心配していることが実際に起きたらそれと向き合おう。そんな心持ちが大切なのかもしれません。未来を思って不安や心配を感じてしまうというのは悪いことではなくて、準備ができるというとてもよいメリットがあります。

—— 〻 ——

こんなことがおきたらどうしよう?!と思ったときにただ不安になって何もしないよりは、今できる準備をすることができるのが不安症や心配症の強みです。

雨が降ったらどうしようと不安に思うくらいなら軽い傘を常に鞄に入れとけばその不安は消えます。雨降って洗濯濡れたらやだなぁと思えばそういう日は割り切って部屋に干せばいいのです。

電車に乗り遅れたり、待ち合わせに遅れたらどうしようと思うくらいなら早めに出て現地に早くついて現地で時間調整するくらいでいいかもしれません。

旅行先に自分が必要なものがなかったらどうしようと思ったら調べたり、自分で必要な小物バッグを用意して一式まとめておけばどこに行くにも不安はありませんしホテルの設備を心配する必要もありません。

仕事で何かプレゼンや報告をすることに心配を感じる前にやれることは全部やったのでしょうか。自分ができる準備を全てしたといえる状態までもっていったのかと自分に聞いてみることも大切です。

行き過ぎはよくありませんがこのように不安や心配を感じられるというのは未来に対する「今の準備」ができるということです。

それでも残念ながら不安や心配していたことが起きることはあります。そうなったらもうそれを受け止めて生きていくしかありません。不安や心配が現実になったということはそれはもう未来のことではなく「今」のことに変わっていますので、それに集中して対応していくしかありません。

一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)。全ての現象は心が作り出しているという意味であること言葉はいかに未来にとらわれずに今に集中するかというこを私に教えてくれます。

未来にとらわれず、未来を考えて不安や心配に思うことが出てきたらそのままにせずに今できることを未来に向けてやっておく。

そんな考え方を大切にしていきたいと思っています。

Keiky.