哲学

中世哲学 2/2 スコラ哲学と普遍論争[哲学8]

前回は中世の初期として紀元前後(つまりキリストの誕生)から12世紀くらいまでの長い時代におけるアウグスティヌスと教父哲学、彼の「今に注目する時間論」について書きました。

今回は中期ということでスコラという学校の講義や議論を通じて語られえたスコラ哲学について触れていきたいと思います。

Contents

■ スコラ哲学のはじまりを作ったアンセルムス

アンセルムスはイタリアで生まれて最終的にはイギリスのカンタベリー大司教に任命された人物です。彼は「神」の存在を論理的に証明しようとしたことで有名です。彼は神を「何よりも大きな存在」として定義づけます。頭の中で「何よりも大きな存在」をイメージできるから神は存在するという主張をしました。

彼のこういった考え方がのちのスコラ哲学における普遍論争につながっていくことになります。 アンセルムスは「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張していて、神の存在証明を試みたかれの実念論(リアリズム)は普遍論争での唯名論と対立する主張の基礎になっていきます。

■ 普遍的なものは存在するのか?普遍論争

中期のスコラ哲学の中心は普遍論争です。簡単に言ってしまうと「普遍」というものが存在するのかしないのか?ということを議論していたということになります。

「普遍」と「個」についてはたとえば「私は人間である」といった場合、私は個であり、人間は普遍ということになります。ここでいう「人間」というものが実際に存在するのかどうか?ということを議論していたのが普遍論争と理解しておけば大丈夫です。

この「普遍」が存在するとしたのが実念論で、「普遍は存在しないでただ個が存在する」としたのが唯名論です。この2つの主張が激しく戦ったのが中世哲学の中心といっていいかもしれません。

アベラールによる調停

激しく戦っていた実念論と唯名論ですが、アベラールという人がこの2つの主張を調停しました。どうやってまとめたか?ということですが彼の主張はこうです。

普遍的な概念は神の思考だけに存在していて、私たちはそれを知ることはできない。一方で私やあなたという存在は存在していて、お互いよく似ている。なのでお互い似ている存在として「一般的な人間」という普遍的な概念は共通点としてあげられる。

このような彼の主張は概念論とされ、とりあえず唯名論と実念論は調停を結ぶことになりますが、それが破棄され、それぞれの主張が改めて出てくることになります。

アクィナスによる実念論の復活

トマス・アクィナスは中世最大の哲学者と呼ばれていますが、彼は「存在」のレベルについて考えて、「神・天使・人間・生物・無生物」の存在に階層があることを考えて、「神」はとにかく最上位の存在としてあり、人間はその間にあると説きました。

神や天使を代表する最上位の階層が教会、その下の人間を束ねるのが領主、動植物は人間に使えるもの、最後の無生物は農奴といった形で階層を作って神の存在を証明したのが彼でした。

この世の中には偶然生まれたものがたくさんあり、私たち人間もそれぞれ偶然に生まれてきたとしていますが、そういった偶然が重なっていたとしても世界の秩序が成り立っているということは「必然」があるということでそれが「絶対的な神である」という形で神の存在を証明しようとします。彼のこの考えは「存在の類比」と呼ばれていて、世界に存在する様々なものの偶然性と、それを生み出した神の必然性ということが根本的な考えとしてあります。

スコトゥスとオッカムによる唯名論の復活

普遍論争ではいったん実念論と唯名論の間で調停が結ばれますが、スコトゥスとオッカムは唯名論を復活させます。

スコットランド出身のスコトゥスはトマス・アクィナスを批判し、「存在の類比」ではなく「存在の一義性」によって神の証明をとなえました。「神は存在する」という場合、存在という言葉は主語がなんであっても同じ意味を示すので神は存在すると主張しました。

彼は「人それぞれの個性が大切である」と説いた人でもあり、個人の自由意志を尊重する考えを説きました。理性によって「こうすべき」と考えるより「こうしたい」という思いがそれぞれの個性を作りあげていると説いた人と言われています。

イングランド出身のオッカムは教会に対する批判を繰り返した人で、「普遍」が存在するという実念論は、「普遍」を求めすぎるあまり空虚な言葉や世俗的な宗教になってしまっていると批判します。彼は「普遍」から始まってそれを実体化するという考えではなく、あくまで現実に目を向けて経験だったり根拠をもって考えることが大切と説いた人で、唯名論を復活させた人とされています。

オッカムの主張では「私は人間である」といった場合、あくまで存在しているのは「私」であって、「人間」という普遍的なものは存在せずただの「記号」であるとしました。神は絶対的な存在として存在しているが、人間もまた神に対する自由をもっているということを主張したのがオッカムでした。

余談ですが、「オッカムのカミソリ」という言葉を聞いたことがある人がいるかもしれませんが、オッカムは少ない根拠で証明できるのであればたくさん論拠を並べてはいけないという意味で「不要なものは切り捨てる」という考えを提唱し、今でも比喩として使われています。

■ 神秘主義:エックハルトとクザーヌス

キリスト教とローマ教会の体制が確立するとそれ以外の考え方は異端として排除されていきます。

無を主張したエックハルト

ドイツのエックハルトもその一人でした。彼は死後に異端宣告を受けたわけですがそれだけ教会にとって危険な考えだったということになります。

彼は「無」になることの重要性を主張しました。彼は「神も無」であるということをいうわけですが、何が言いたいかというと、この世界を神が作るまでは無だったわけなので、人間は確かに神によって作られたかもしれないが、神もまた人間が認識することで存在することができるということを言いました。

この「無」になろうという概念は禅にも似たところを感じます。私たちが自分の意志や認識や欲を捨てて無になることで神と人間の合一が果たせるといったエックハルトの考えはそういった俗世から「離脱」するというかんがえがベースにあるところなどが似ている気がします。

人間が中心と説いたクザーヌス

エックハルトのような異端ではなく、分裂したカトリック教会の統一を目指したのがクザーヌスでした。

彼はこの世は神を中心に回っているのではなく、人間を中心にまわっていると説いた人物です。なぜなら「神」を認識できる唯一の存在が「人間」であるというのが彼の主張です。

彼の有名な言葉で「知ある無知」という言葉は人間が無知であるという自覚を通じて神を知ることができるという逆説を説明したものです。人間の知識は有限で無知だけれど神は無限の存在であり、私たちのすべてを包み込むのが神であるということを説きました。

■ さいごに

これでザザッと見てきた中世の哲学については終わりにしたいと思います。中世哲学はかなり「神」にフォーカスしていて、キリスト教や教会の存在と切っても切れない内容だったかと思います。

この先、ローマ帝国が滅亡していく中でルネサンス時代が到来して新たな進化を人類は遂げていくわけですが、その中で近代哲学は発展していきます。名前くらいは聞いたことがあるデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスなどもこの時代に登場してくるのでいよいよ哲学の本番といった雰囲気になってくると思います。

それではまた次回!