禅語に触れる

機会の平等だけでは平等ではない?[平等即不平等] 禅の言葉

本当の平等って実現するのは難しいですよね。何をもって不平等というか?ということを考えるときりがありません。

今日はそんな平等に関する禅の言葉です。

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平等とはどういう状態のことをいいますか?

ちょっと身近な見方をすれば、明らかに頭のいい子がいたとしても年齢で一緒に進学しないといけないのか。たまたま経済的に厳しい家に生まれた子が良い教育を経済的に受けられないスパイラルから抜け出すことが難しいのはどう思うか。

会社で同じものを一斉に営業マンが売る営業部があったとして一番多く売った人が一番優秀で優遇されるべきか。

ちょっと固い見方ををすれば、極端な共産主義のように国が仕事を分配したり、企業の自由競争を阻害して国が生産計画の指示をしたりすれば平等な社会が実現されるのか、また格差社会を生んでいるのは自由な資本主義経済が原因なのか。困窮者を救済するようなセイフティネットを作れば済む話なのか。

平等という議論はそれぞれの立場でいろいろな考え方があります。

「能力や本人の努力の問題」とすることもできれば、自分ではどうしようもないこと場合もあります。

このように平等については人それぞれ全く考え方が違います。

禅の世界ではどのように考えているでしょうか。

平等即不平等の意味

禅には「平等即不平等」という言葉があります。実業家の渋沢栄一も大切にしていた言葉の一つとされています。

平等即不平等

読み方:びょうどうそくふびょうどう

意味:分け隔てなく人を見てそれぞれの良さを引き出すこと

平等即不平等(びょうどうそくふびょうどう)とは、分け隔てなく人を見るということはそれぞれの良さを引き出そうという意味です。

人に上下はない。機会の平等を与えてその結果で出来がいい人だけが優遇されるというのは不平等であるということです。

例えば、小学校の一斉テストを同じ部屋で受ける場合、同じ環境が与えられているので平等な状態とはいえます。このテストの結果によって優秀な子供はアメが与えられ、成績が悪い子は罰せられるということは禅の世界では平等とはいいません。

これはあくまで一人一人が違うということでそれ以上のものはないということです。

「一人ひとりの個性を活かすことを考えることが大切」だということを伝えてくれる言葉です。その個性を引き出してこそ平等な状態に近づけるともいえます。

兄弟・姉妹の子育て、仕事での部下の育成でも意識できること

人にはもともと優秀、出来が悪いといった上下はなく、あくまで平等な存在であるという考えは会社でも家庭でも大切にすべき考えです。

兄弟、姉妹をつい比べてしまうことはありませんか?手を焼いてしまう子供ということをちゃんと聞いてくれる子供、勉強をスイスイできる子どもと全然やってくれない子供。

ちゃんと平等に接することはできていますでしょうか。それぞれの個性を見ないで不平等な接し方をしていないでしょうか。

会社ではどうでしょうか。

できる部下ばかりの意見を聞いてダメな部下を排除するようなこと、不遇を与えたりしていないでしょうか。その人の個性は実は全然違うところで活きるのでは?という考えをちゃんともっているでしょうか。その人がいることで成績以外の面での良い点を作ることはできていますでしょうか。

1つの指標だけで人の優劣をはかっていいのでしょうか。あなた自身は部下をさばけるほど優秀なすごい人でしたでしょうか?あなたは「努力の人」であることは誰も疑いませんが自分の考えが常に正解であるわけでもありません。このような点について自問自答してみることが大切です。

私もつねに立ち止まって考えないと、ついつい自分の考えを優先して自分の色眼鏡で世の中を見てしまいます。

人の優劣ではなく、人の良さをいかに引き出すか。これが子育てでも仕事でも大切な軸となります。

完璧な人はいませんので常に人と接するときは横柄な態度は慎んで、逆に偉い人に会うときも下に出すぎる必要もありません。年齢や役職など一切関係なく常に誰からも教わるスタンスを大切にして人をある一つの優劣で見ないということを意識したいと思っています。

Keiky.