禅語に触れる

縁を結ぶかは自分次第 [縁]禅の言葉

私たちは本当に不思議な縁で結ばれています。

一見すると全ては偶然のような気がしますが良縁に結ばれるために何かできることはないのでしょうか。

結婚相手が見つからない、いい出会いがない、会社で孤独な思いをしてる、パワハラを受けている。いまの最悪の関係を抜け出したい。自分のいる場所はここではない気がする。

このように思うシチュエーションは結構ありますよね。
この記事では良い縁はただの偶然なのか?ということについて少し考えてみたいと思います。

Contents

■ 自分で選んだわけではない?

自分の周りの人たちをちょっと思い出してみましょう。

自分は好きこのんで今の自分の親から生まれてきたわけではありませんし、自分の子供たちもたまたま自分のところに生まれてくれただけです。

兄弟、姉妹だって同じです。彼らも別に誰かに頼んで私の兄弟になったわけではありません。

家族以外の関係はどうでしょうか。

いまの会社にいる人たちは上司であれ、部下であれ、同僚であれ私たちが選んだわけではありません。

たまたまこの広い地球の中でとてつもない低い確率で同じオフィスに仕事の関係ができただけで全て偶然の出会いといってもいいかもしれません。

当然嫌いなヤツがいたり、気が合う人がいたり、感謝したい人もいれば一生許さない人もいるでしょう。

こう考えると私たちの出会いというのは自分たちの力が全く及ばない、ただの偶然のように思えてくるものです。

その場その場の縁を一期一会として受けては流すという考えも禅の中では大切な考えなので、嫌な出会いでも一生ではないでいつか過ぎ去るものと考えるには良いですが、良い縁に恵まれたいと思った時も、すべて偶然なのでしょうか。

良い縁に恵まれない場合、自分は単に運がないということと考えるしかないのでしょうか。

■ 自分で選べる縁もあることに気づこう

禅の考えでは「
縁」というものは誰にも平等に訪れるとされています。

自分が気づいていないだけでいろいろなところに「縁のきっかけ」のようなものは転がっています。小さな小さな石ころのようなものなので、とても注意深く見ていないと気づかないような大きさです。

縁を結ぶかどうかはその人次第。
大きな力が働き無理にきめることもできない。


そういった小さな小さな縁のきっかけを結ぶには注意深く見ることと、縁を結ぶ努力が大切です。

出会いがないと嘆く前に出会いを探しているのか。嫌な職場から逃げ出すために新しい仕事を探しているのか。

そういったことを振り返って、新たな縁のかけらを見つけたときに「えいっ」とその縁に飛び乗るにはある程度準備と関心を持たなければなりません。

私の経験で恐縮ですが、心を病んでしまうような部署にいたことがあり大変な思いをしました。その時腐りましたが、自分の趣味として気分転換になっていた勉強だけは続けていました。

その勉強を少しずつ仕事で活かすようにしましたがその部署では誰もそんなことに関心は示してもらえずますます病むばかりでしたが、全く違う部署の方がたまたま資料をみて引っ張ってくれたことで辞めずにすみ病んだ気持ちも減っていきました。

これは偶然だったかもしれません。

それでもコツコツやってきたことがなければそういった縁に結ばれることもなかったとも言えます。

何か新しい縁に恵まれたい場合、その縁のチャンスに対してアンテナをはっているか、その縁を結ぶ努力をしているかということが大切です。

必ずうまくいくとは言えませんが、うまくいく可能性が上がることは確かです。

■ 無理に努力しなくてもそれもまた別の縁につながる

そんなこと言ったって、無理。努力できない。めんどくさい。疲れる。余裕ない。

そんな状況に陥ってしまうことは誰しもあります。私だって大概はそんな状況で、新しい縁を結ぶような体力が残っていなかったり、仕事で疲れ果てていると家に帰ってから何もする気が起きません。

そんなときは焦る必要はまったくありません。

無理に縁を結ぼうと努力する必要はないのです。

そのときはたまたま縁を結ぶタイミングではないだけだと考えるべきです。

そんなときは
いまある縁を大切に考えましょう。

なんとなく過ごした夫婦の時間、大きなこともなく過ぎた時間にこそ価値があったりするものです。

それもまた縁
ですし、いまある縁だっていつまで続く縁なのかわからないわけですので。

いまある縁、これからある縁の両方を大切に生きていきたいです。

Keiky.