哲学

近代哲学 5/5 社会契約論とドイツ概念論 [哲学13]

今回で近代哲学は最後です。ここまでの4回では4つ大きなカタマリとして、大陸合理論、イギリス経験論、ドイツ概念論、社会契約論についてそれぞれ簡単に説明してきましたが、今回はドイツ概念論の源流であるカントについて触れて、近代哲学は終わりにしたいと思います。ここまで連続して哲学シリーズについて書いてきましたが、現代哲学はぼちぼち更新していきたいと思っていますのでよろしくお願いします。

簡単に振り返っておくと、「理性」に注目したデカルトを中心とした大陸合理論、「経験」に注目したロックによるイギリス経験論の流れ、国家と社会の関係について考えたホッブスやルソーを中心とした社会契約論、カントからヘーゲルまでの流れであるドイツ概念論とそれを否定したマルクスというのが近代哲学の大まかな登場人物と主な議題でした。

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■ カントの批判哲学の概要

カントは「認識」のテーマを軸に自分がどいうったものを認識できるかということを考えた人物でした。

それまでの大陸合理論では自ら備わる理性の力で客観的に世界を認識できるという立場をとっていて、イギリス経験論では見たり触るなど経験を通じて理解できることが認識であり人間はあくまで世界が確からしいということしか分からないという考え方をとっていました。

カントはこれら大陸合理論やイギリス経験論で基本となっている「認識する」ということを批判するということを試みました。彼は「純粋理性批判」という本で私たち人間がどういった世界を認識できるのか、できないのかということについて書きました。

彼は「世界のあるがままの姿を人間が認識する」ということではなく、「ある枠組みにそって対象を構成することで認識できる」と説きました。これは「コペルニクス的転回」と呼ばれる考え方の転換の一つと言われていて、天動説に対して地動説を唱えたコペルニクスになぞらえられています。

彼が主張したこの考え方は難解ですが、ここにテニスボールがあってそれをもって手を放すとします。そのボールが丸いとか黄色いということを見たり触ることでその空間に存在していることを認識します。また、落ちて弾んでいる状態というのは時間に対する認識を通じて先ほど手に合ったボールと床に弾んでいるボールが同じものであるということも理解できています。つまり、私たちはこういった空間や時空の認識という枠組みを通じてものごとを認識しているということが言えます。このように認識することで私たちは世の中を構成していると考えるのが彼の考え方ということが言えます。

私たちが認識している先ほどのテニスボールはこの段階ではあくまで「現象」であり、「物自体」ではないというのが彼の考え方の出発点になります。私たちは先ほどのテニスボールを「空間や時間」を通じて人間は感性を通じてそれを「現象」としてとらえます。その認識した現象をデータとして受け取り、人間に備わっている理解力(悟性と呼んでいます)で整理することでテニスボールという「概念」にたどり着けるとしました。

彼はのちに「実践理性批判」という本を書きます。ここで彼は神の存在や霊魂の不死という問題は理性では解決できないと説きました。私たちが唯一コントロールできるのは自分の意志は行為であるとして道徳的に生きる大切さについて書いています。

続いて「判断力批判」という本を書くのですが、ここでは理論的に考える理性と、実践として道徳的に行為する理性の矛盾について一致を試みています。

■ カントまとめ

カントというのはいろいろな批判を通じて新たなとらえ方を世の中に提示した近代哲学の中でも最も重要な人物の一人と言われています。

「純粋理性批判」ではこの世の中が成立しているということは理性だけでは語れないということを主張しました(大陸合理論の批判)。また経験だけで知覚できるものが世の中ではないということも批判しました(イギリス経験論の批判)。そして彼は経験と理性を融合し、新しい認識を生み出すという新しい立場をとりました。

「実践理性批判」では「道徳」をテーマにしました。ここで彼は人間が欲求を克服して理性を追求していくために道徳が重要であり、道徳的に生きることの大切さを説きます。