禅語に触れる

お賽銭を払って執着心を捨てる [喜捨]

みなさんは年に何回くらい神社に行くでしょうか。

正月に初詣に行ったり、合格祈願、恋愛成就、病気の治癒、交通安全、厄年のお払い、七五三など人それぞれ神社にお参りに行く理由は様々です。

私はだいたい三回くらいはいくかもしれません。家族の厄年や子供の七五三など比較的イベント的なものが多いですが、そういったものがなければ正月の一回に加えてあと一回ふらっとどこかに立ち寄った時に行くか行かないかといった感じかもしれません。

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神社での願い事は訪問目的によりますが、いつも私は家族の健康や無事くらいしかお願いしません。とはいえ最後に「いい仕事ができますように」とか、「(何か悩んでいることが)解決しますように」と付け加えてしまう時はあります。

わたしの知り合いには宝くじに当たりますようにとかまさに神頼みするような人もいます。 いつもちょっとした欲が出てしまう時は「いかんなぁ」と自分を戒めています。

自分の努力でなせることは自分の努力を見守ってほしいというお願いをすべきであって、何かアラジンの魔法のランプのように何でも願いを叶えてくれるわけではないと思った方が良いと感じます。

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ところでみなさんはお賽銭はいくら入れますか。

十円ですか?やはりご縁があることを願って5円でしょうか。ちょっと奮発してもっと入れるでしょうか。神社がいかに儲かるかを考えていいなぁ〜と思ってちょっと渋ったりしてしまうことがある人もいるかもしれません。

お財布に100円と500円玉があったらどちらをいれますか。500円だとちょっと躊躇が生じてしまう気がします。1円と10円だったらさすがに10円でしょうか。それとも1000円札をいれて家族みんなの幸せを祈りますか。いっそのこと全部財布のお金をいれますか。

禅の世界ではお賽銭を入れること「喜捨」といって、とらわれているものを捨てて自由になるということを示しています。

執着心を捨てるということをお賽銭を入れるということを通じて感じるということを意味しています。

わたしはいつも何かにとらわれがちだったりします。自分がどう見られているか、認められたい、寂しい、失敗したらどうしよう、お金をやりくりしなきゃ、忙しいけど買い物しなきゃといった具合に心はいつも何かにとらわれています。

人間の心はいつも何か、誰かに執着する傾向がありますが禅の教えではそういったものをいかに捨てて本来の無の自分に戻るかということを説いているとわたしは思っています。

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いろいろなものや人間関係や考えに縛られた心を解放してあげて自由に軽やかに生きるということを考えていく修行といえるかもしれません。

中でもお金というのはとても執着しやすいものの一つです。 普段は100円くらいあまりケチらない人でもお賽銭箱にお金を入れるにはなんだかもったいないとか、捨てているような感覚を持ってしまうとしたらそれは執着心の仕業かもしれません。

そういったものから心を解放するために「喜捨」というお賽銭を投げ捨てる行為があります。 このように心に沸いたことを全て捨ててしまうという訓練は座禅が有効と言われています。

時々やってみることはありますが、頭に考えが湧いてこない状態をつくるのは不可能です。

一度座禅体験をした時に聞いたことですが、僧侶の方でも何も考えないのは難しいそうです。 そういったプロの方は何か心に湧いてきたらそれにとらわれることなく、サッと流してしまうということを繰り返すそうです。

川に流したり、ゴミ箱にポイポイ捨てていくことわイメージして考えすぎずどんどん捨てていくようにすれば訓練になるということでした。

そういった執着心を捨てるための喜捨というお賽銭を入れる行為も立派な修行といえそうです。

さて次回神社に行く時にいくら入れましょう(こんなことを考えている時点でとらわれていますね。いかんいかん)。

Keiky.